昭和五十七年八月二十日 朝の御理解
神 訓 一、天が下に他人ということはなきものぞ。
総人類の危機が今ほど深刻に真剣に叫ばれてる時はないと思うですね。これは、天が下に他人という事はなきと仰せられる。だから日本人だけが助かればよいという事ではない。世界総氏子の助かりにつながるおかげを頂かなければならない。その総人類が、そういう危機に瀕しておる、ね。それを一視同仁の見方というかね。日本の言葉でいうと腹からとか申しますね、ね。もう本当に身内の者だとしての祈りとか願いですから、そのそういう願いと言うものが本当に助けうる内容をもった願いでなかならければならないという事です、ね。世界の宗教者の方達が、手に手を取って世界の平和を。これは宗教者だけではありません。あらゆる人達がそういう運動を起こしたり、祈りを願いをもっておられる人達がたくさんあるんですけれども。いかにそれを持っておっても願っておっても、それが本当の助かりにつながっていく内容を持った者じゃなからにゃいけないという事です。
昨日は、研修の時間に今、英語の講習会があっております。先生方、松本先生ですか、を始め英国人の先生、米国人の先生方も御一緒に参加されまして、ま、いろいろな、昨日の御理解をみんなで研修いたしましたが、あの先生方にも昨日の朝の御理解は感じさせずにはおかない。昨日、松本先生が言っておられましたが。あれが親先生の腹芸というものでしょうかと、いうような発言がございました。腹芸の論理という本を表しておられます。ですから、私が言う腹芸というのよりか、もう一つ越えた腹芸、それが、ま、合楽の先生の内容じゃないだろうかというような、ま、こちらが説明を聞くような感じでございましたが。私はとにかく、みんなが正しい事を、こう言うけれども、合楽の場合は決して正しい事ではない。本当な事なんだ。だから正しい事と本当な事の違いを、ま、いろいろ聞いてもらったんですけれども。中にその米国から見えておられる英語の先生が、ま、大変共鳴されましてね。そしてここへ出て見えて握手を求められました。そしてその私の手にキスをされました。そして退がって、こらは私が最高に尊敬を申し上げておる方に対する、ま、一つの儀礼のようなもんだそうですんね。握手、そしてキスをするというような、そういうような一場面も昨日はございましたが。確かに、ね。正しい事が必ずしも本当な事ではないという事。私共の正しいと思っておる事が人間の幸せにはつながらないという事。それは本当な事でなからなければ、本当の幸せにはつながらないという、ま、論理だ、なんです。合楽の話し。合楽の、ま、一切神愛論はそう説くのです。正しい事じゃないです。普通道徳から言うたら、場合には正しくないという事かも分からないような事すらもあります、ね。非道徳に見える事もあります。非常識に見える事もありますけれども、本当の事。その事というのは人間が助かる、人間が幸せになるという事においての本当の事なんです。だから皆さんは、その本当な事を日々、学んでおられる訳であります、ね。
昨日私、あんなお取り次ぎは始めてさして頂きましたが、あるお年寄りの非常に教養のある、常識は誰よりも発達しておられるという婦人が参って来ました。ある教会へ長年、何十年の信心をしとられる方なんです。そいが、私がここ、昼出て参りましたら、丁度、光昭がお取り次ぎさして頂いておりましたが、もう三十分余りベラベラべラずーっと自分の言う事ばかり、その事がみんな不平であり不足であり、も、こちらが一口どうか言おうという、この隙のないように、その、ま、言うなれば不平不足を、ま、お届けされたという事で、私がここ、時間、替わりましたから、今だ私に、またそれを少し言いかけられましたから、とにかく嫁が助かるとか息子が助かるという事じゃなくて、あなた自身が助からなければ駄目なんです、ね。それには例えば、お金さえあれば幸せと、こう金やら物やらにあなたが頼っておる間は、あなたの幸せは絶対にない。それも必要です。けれども問題は心です。あなた自身の心が助からなければというようなふうに申しましたんですけども。神様が助けようがないとおっしゃった。私は、こういう御理解頂いたのは始めてでした。助けようがない、ね。もうとにかく、不平不足ダラダラというだけではなくて、自分がね。確かにその方は、私、何回もお取り次ぎさせて頂いて、この方が、ま、九死に一生といったような病気をされた時なんかはお願いがあって助かっているんです。時々その、そういう特別の事。だから助けようがないというのは、そのそういうおかげの世界じゃないんです、ね。心を助けるという事なんです。だからあの心が動かない助けようがない。私はその事を聞いて、これはこの方だけじゃない。合楽にたくさん、こうして御信心をなさる方があるけれども、神様が助けようがないと信者氏子が、どの位あるんだろうかと思いましたよ。これは教えを頂こうとせず、教えを行じようとせず、今私が申します本当な事をです、行じないならば、もう助けようはないと神様は、ね。頭が痛いけん治して下さい。腹が痛いから治して下さい。これなら別です。これは、も、別ですけども、それがなら頭が良くなったから、腹が良くなったからだけでは助かりにならんのです。助かるというのは本当に、言わば心から助かるという事にならなければならん、ね。だから、んなら合楽で毎日、日参、例えばなら、さして頂いとるという人でもです、ね。本当な事を聞いて本当にそれを実験実証していこうという姿勢。その勢情がないならば、もう神様は、もうあの氏子は助けようがないという事になるのじゃないでしょうか、ね。おかげを受けるけん参って来よるという人達のばあいは、も、助けようがないんです。何かの機会に翻然と自分の心に、言うならば教えの焦点を置いて、ね。実験実証しよう。私はその老婦人のお取り次ぎさして頂いたら、あのうお稲荷様か何かに、たくさん鳥居がこうお供えしてあるでしょ。その「たくさんな鳥居を手前から見ておるところ」を頂いたんです。段々だから向こうの方が小さくなって見えなくなっていく、たくさんな、こ、燈籠がある。燈籠じゃない、鳥居がある、ね。だから何十年の、やはり信心をしておられるから、いろんな信心も出来とるし御用も出来てきたかもわからんけれども、神の方へ近付こうとしないという事。だから鳥居はたくさん、ま、お供えしたこも知れません。けれども一番手前のところに居るだけで、向こうの方へ一歩も進んでおられんから、段々段々小さくなってこまくなって後には見えない。神様が見えなくなっておるところに、そんな不平ダラダラという事になってくるんじゃないでしょうかね。不足ダラダラという事になってくるんじゃないでしょうかね、ね。合楽では最近言われるように不平不足のない、また不平不足を思わんですむ世界、ね。そういう世界に住みたいという、なら教えの元に皆さん信心の稽古をなさっておられる訳なんです、ね。神様から、もう助けようがないという事は、言わばもう、心の助かりがないという事は結局霊の世界に入っても助かりようがない訳なんです、ね。心が、いよいよ、ね。そういう稽古が、なら、教祖様がおっしゃる信心をすれば、一年一年有り難うなってくると、ね。信心をすれば一段一段と信心の位がつくものじゃと、こうおっしゃるような位を感ずる事もなからなければ一年一年有り難くなっていかないという信心。そういう信心がもう、まずほとんどじゃない。過去、なら金光教の百年の、ま歴史を振り返ってみてもです。たくさんな信者信奉者はおったけれども、ただお取り次ぎを頂いてお願いをしておかげを頂くから信心が長年続いておるというような事では、ね。言うなら助かりにはつながらない、ね。天が下に他人という事はない。そういう助かりようのない人達がたくさん、め、言うならばあるのですから、ね。本当な事を自分が行じて本当なおかげを頂き表して、その本当な事を世界総人類に広げていこう。
昨日私は、その外人の方達のお取り次ぎをさせて頂いとりましたら「ザクロがパッと、こ、割れたとこ」を頂いたんです、ね。ハハア、この人達がひょっとすると合楽の信心を、に、感心をもって合楽の信心をマスターして、そして母国に帰られてから、この方達が布教にでも出られるようになるのかも知れんと思いましたね。ザクロのお知らせはそうなんです、ね。ザクロはあれは「障子一重に小僧千人」というような御理解を頂いた事がありますね。こう膜があるでしょう、その向こうにはたくさんな、こ、入ってるでしょ。だから障子一重に小僧千人、ね。一人の小僧が出来た。それがんなら自分達の国に帰って、こう私が神様にお願いさせて頂、勿論世界万国津々浦々にお道の信心が、という願いをもつ為にはです、ね。まず人材の育成がいるのです、ね。ですからそういう働きになってくるのかも知れんというふうに私は、昨日お取り次ぎをさせて頂いて思った事ですが、ね。そしてそこに初めて、ね。その人がその一面が、こう合楽理念に基づいて本当の助かりを得られる人達が出来て、おかげを頂いていくという行き方にならなければ、言わば人類の本当の助かりにはなれませんです。いかにこれが正しい事だ。正しい事では人間は助からんです。それこそ清貧に甘んじるという事にはなるかも知れん、ことしかならんです、ね。正しい事と本当な事は違う。本当な事というのは人間が幸せになれる。それを、なら最近合楽では、ね。神様がバックというのではなくて神様との交流が、今合楽では説かれてあるんです、ね。だから神様に交流する手だてというものは、ね。その気になれば熱情をもってするならば誰でも出来る事なんです、ね。神様と交流するという事は、天地と交流するという事、それにはなら、天の心にならなきゃいかん、地の心にならなければいけない。それをなら、土の心とか成り行きを尊ぶとか、限りなく美しい心といったようなふうに、ま説きますから、その気になれば出来るのです、ね。天地の心になるからこれは、もう一緒になれば交流する事が出来るんです、ね。そこから生みなされてくるところのおかげをもってしなければ世界真の平和は望まれません。どんなにそういう大宗教家が集まってワイワイ言ったところで絶対、世界の平和につながる内容をもたないですから、いかに正しい事と言うてそれを、ま言うたところでそれでは助かりにはつながりません、ね。それにはまずね、私共が神様から、もうこの氏子は助けようがないと言われたり思われたりする事ではない信心を頂きたいのです。おかげ頂くけん合楽に参りなさいで参って来た分ではね。だから合楽には、何とは無しにそういう働きがいつもこう、感じずにはおれない働きが合楽には、いつもあっておる、起こっておるという事です。
昨日、久留米のバーを経営しとられる婦人の方が、ま、いろんな大変な問題でお参りをしてみえた。それも時々参って来る、その久留米の御信者さんがとにかく、私がよかとこに連れて行くというて無理やりに引っ張って連れて来られたという事です。だから私が、ここで一生懸命お話しをするけれども、もう表情一つ変えなさらんです。私は、このごろ目が薄いけん、ひざついてから「あんた、うれしいとも悲しいともならごたる顔をしてから、まるっきりコンクリートの上に水撒きよるごたるふうじゃけん話すとに勢がない」と私が言いましたら、始めてニコッと笑うち笑われましたが、私、あんたが来る前にね、この幸せという字を書いてね、ここに置いとったんです。だからあのう、この幸せという字は上から見ても幸、反対からしても幸せと読もうが、あの金光様の信心なね、どんな場合でも幸せの感じれれる道を教えるのじゃから、あんたがせっかく参って来たからひとつ、この道を体得しようという勢情を燃やしたら、今あんたが思うとる問題は、あの解決もつくしあんた自身も助かれば主人も助かる、子供も助かると言うて、ま、申し上げた事ですが。それば言うたらその方がですね。私の名前が幸(こう)ち言うのです。幸せという字を書いて○○幸という人、ね。その時に初めて、こう何と言うでしょうか、あらっ-とこう思った感じですね。本当にそういうどんな場合でも幸せの感じられるような道があるならば勉強してみろうかなあというふうに思ったのじゃないでしょうか、そういう働きが合楽では、いつもあっておるです。だからそれに、言うなら御神徳に触れるわけです。だから御神徳に触れるから、ならその神様と交流が出来るようなおかげを頂く事が、御神徳を頂ける事であるとするならです、ね。その手だてを行じようという気にならなければだめでしょうが。難しい事を、もうダラダラとお願いばっかり、それならそれでもいいんです。牛馬の事に至まで実意をもって願えとおっしゃるから願うてもいいけれども、ね。その事を通して、言うなら神様と天地と交流するような手だてを、ね。そこに見いだしていかない限り、ね。天が下に他人という事はなきとおっしゃる。本当にまあ、兄弟、腹からの世界中の人間が、今難儀に瀕しておる、ね。そういう人達が言わば、助かっていく事の為に、まず本当な事をわかってる人達が、本当のおかげを表して本当な、言うならば、ま、光の輪を広めていこうというような、ね。働きになって来なければならないと思うんです。ただ世界中の者が、ま、いわゆる同朋としての考え方というだけではなくて、それを助けていこうという働きが私は宗教だと思うし、また神様の願いだと思うんです。総人類の本当の助かりを願うならば、まず私、合楽に御縁を頂いておる皆さんの一人一人がです、まず助かる事。それには本当な事を体得して本当なおかげとは、こういう事だという実証をね、して表していく以外にないと思うんです。神様も何かその事については一生懸命、働きをしておられますからその働きに私共も便乗さしてもらえるような信心を頂きたい。昨日の皆さん達の事を聞かして頂きましてです、ね。本当にこの方達が合楽の信心を本当にマスターされる体得されて、そしてその方一家その助かりにもなり、こういう有り難い神様が日本には居られるという事がわかってそれを、なら母国に帰って広げていこうと、言うならの働きになるやも知れんようなお知らせを昨日、頂いたんです。けれども、ね。天が下に他人という事はないのですから、黒でも白でもみんなが、ね。一応に本当の助かりを求めて本当の助かりを教えていける人が、今の世の中にはないという事です。ですからそういう、ま、言うならば合楽に御縁を頂いたという事は、深い御神慮のあっての事なんですから、その御神慮に添い奉れるような信心を、皆さんして頂きたいと思います。
どうぞ。